雑記
雑記
オールナイトニッポンとブルートレイン
Ⅰ.始めに
ラジオや列車の旅についてつらつらと書き綴ります。
Ⅱ.サンスペとの出会いと番組の録音
(1)サンスペとの出会い
私がラジオを聞き始めたのは1973年頃で、最初の番組はニッポン放送の”欽ちゃんのドンといってみよう!”(21:50〜)でした。友人の口コミで聞き始めたのですが、リスナー投稿を中心としたその番組は、今までテレビしか見てなかった私にとって、とても新鮮であり、いっぺんにラジオの魅力に取りつかれました。
その”欽ドン”から”ゼロの世界”や”ミュージック・イン・ハイフォニック”と前後の時間を中心に聴取番組を広げていきましたが、まだ小学生であったこともあり、さすがに深夜放送までには手を出せませんでした。
中学に上がって間もない頃、クラスで「土曜の深夜にものすごく面白い番組がある」ということが話題になり、それに乗り遅れまいと土曜の深夜に起き続け、初めて”鶴光のオールナイトニッポン・サンデースペシャル ”(以下サンスペ)を聞いたのです。
鶴光師匠が繰り出すどぎついエロトークとリスナーのユーモア溢れる投稿、それをもとに作られたバラエティに富んだコーナーの数々は、私にとって大変衝撃的で、夜が深まるにつれ”次は何だろう?”という気持ちにかき立てられ、4時間があっという間に過ぎました。この面白さにハマった私は、それ以降毎週土曜の深夜を首を長くして待つことになります。
(2)番組の録音
こんな面白い番組は何度も繰り返して聞きたいし、また深夜ですからどうしても途中で眠って残りの時間を聞き逃してしまうこともあったので、番組をテープに録音することを思いつきます。
まずは60分テープを使い気に入ったコーナーのみ録音しましたが、どのコーナーも優劣付け難いほど面白く、ほどなくして4時間まるまる録音したいという気になり、120分テープを使うことを思いつきます。当時、120分テープは中学生の私にとってかなり高価なものでしたが、少ない小遣いをはたいて買い何度も繰り返し聞いていました。
(3)夜行列車でラジオを聞く
デープの録音時間を長くすることで番組を聞き逃すことは減りましたが、カセットの120分は60分よりテープの厚さが半分程度に薄くなり、その分耐久性も低くなります。従って、毎週繰り返して録音再生するのは1年が限度であり、そのたびに新しいものと交換することを迫られました。
交換したあと古いテープはいつまでも残ることになるので、それだったら思い出に残るものにしようと。小さい頃から鉄道好きでブルートレインで旅行することに憧れていましたこともあって「乗ったら絶対眠れないだろうから、その間サンスペを聞こう」ということで、ブルートレインの中で聞くサンスペを走行音といっしょに交換するテープへ残すことを思いつき計画を練ります。
1行き先の設定 - 何に乗るか?
行き先は中四国地方にしました。乗車する列車は主に東海道・山陽方面を走行する寝台特急です。
2移動する列車でどうやってラジオを聞くか?
当時オールナイトニッポンのネット局は16局あったのですが、沿線のどの放送局なのかはまったくわかりません。まずは、ニッポン放送を直接受信することから試み、第1回目のときにラジオ大阪がネット局であることを知りました。その後、回を重ねるたびに九州朝日放送、西日本放送などと実践のたびに数を増やしていくことになります。後に創刊されたラジオライフ誌(三才ブックス刊)により、全国の放送局および各送信所の周波数を把握できるようになり、より良好な電波を受信できるようになりました。
当初持っていたラジカセのチューナー部はバリコン式であり、聞こうとする周波数辺りまでダイヤルを回し、そこから微調整するようにしていました。受信感度もあまりいいものではありませんでしたが、'83年に周波数デジタル表示ラジオを導入し、感度は格段に向上します。(それでもトンネル内や山間部は聞きづらいものでした)
3どう録音するか
初めのうちはラジオ番組だけでしたが、そのうちステレオレコーダーを買い、受信状態の良い地域では左右のチャンネルそれぞれにラジオと走行音を収録しました。
録音機器もラジカセ(モノラル)から始まりステレオレコーダー(カセットボーイ)、オートリバースラジカセと変わっていきます。
Ⅲ.旅行記
以下はサンスペを列車の中で聞いたときの模様です。
※日付は「ラジオ」の各放送日、列車名等は「列車の旅」の各ページにリンクしています。
このページにはブラウザの”戻る”ボタンで戻ってください。
(1)1977年3月26日(瀬戸)
1ダイヤ :19:25(東京) – 1:00(新垂井付近) – 4:00(加古川付近) – 6:00(宇野)
2使用機器:MR-6850(SANYO)
3行程
当時、「瀬戸」は「あさかぜ」とともに20系で運行されていました。寝台の巾は14系や24系に比べ狭く食堂車も営業していませんが、最後部に広い展望室がありました。ロビーカーなど無かった時代に、ささやかながらもフリースペースを持った車両です。
眠い目をこすりながらなんとか起き続け、新垂井駅(現在は廃止)付近で1:00を迎えます。ニッポン放送からの受信状況は良好。関ヶ原付近の山中でもあり辺りは真っ暗。車窓の灯りが降り積もった雪に白く反射しながら後方へ流れていきます。当時スポンサーであった”旅のレストラン日本食堂”のCMが旅情をかき立てます。
2:00頃に大津を過ぎ、逢坂山トンネル、東山トンネルに入ると受信状態は悪くなりますが、それ以外は良好です。曲がかかっている最中にダイヤルを回すとOBC(ラジオ大阪)がキャッチできました。CMアタマのコールサインと地元CMが、遠くに来たことを実感させます。列車が上淀川橋梁を渡り大阪で停車。ヘッドホンからは”ハードボイルド小説”のコーナーが。人気の無いホームが恐怖心をかき立てられます。
大阪を出発してしばくすると3:00に。OBCがネットから降りたため、ダイヤルを再びニッポン放送に戻します。須磨を通過する頃には感度の状態が厳しくなったので、ダイヤルを回しながら次のネット局を探すとRNC(西日本放送)をキャッチ。初めてCM中のフィラーをアタマから聞くことができました。
”懐メロポップス”の途中で不覚にも眠ってしまい、姫路を通過した辺りで目を覚まします。カセットを反転させましたが、すでに4:40。アシスタントの西山真知子が卒業式で泣きじゃくっているところでした。
初めてのブルートレインで4時間連続聞けなかったことは悔やまれますが、ネットの周波数がわかるなど収穫も多かったので、まずは成功と言ったところでしょうか。
一生の思い出に残る旅でした。
(2)1978年8月19日(金星)
1ダイヤ: 22:50(名古屋) – 1:00(高槻付近) – 5:00(白市付近) – 広島5:49
2使用機器:MR-6850(SANYO)
3行程
583系に乗りたくてこのルートを選びました。旅費節約と睡眠のため、名古屋まで国鉄ハイウェイバスで移動します。「金星」では下段寝台に陣取り、時間までラジオを聞く準備を進めます。A寝台のような広々した空間に大きな窓を独り占め。天井は低いのですが、窓際は頭一つ入るくらいのヘッドクリアランスが保たれ、昨年の20系に比べ居住性は格段に向上しています。
放送開始まであと2時間ほど。事前にバスの中で眠っていたので、目が冴えたまま高槻付近で1:00を迎えます。
前年の実績をもとに3:00までOBCでサンスペを聞きます。夜空は晴れており、須磨付近では暗い海に月の光が照らされ幻想的でした。
3:00からはRNCですが、倉敷を過ぎたあたりから受信状態が悪くなったので再びネット局探しをします。ほどなく良好な電波をキャッチ。KBC(九州朝日放送)でした。
KBCは、電波は良好ですがCMアタマにコールサインが必ず入るのがちょっと気になるところ。本郷を過ぎたあたりで夜が開け始めてきます。
このときは通しで聞けたうえに、寝台の居住性の良さに大変満足いく環境で聞くことができました。
帰りは広島から大阪まで10月の廃止を間近に控えた「安芸」に乗車。この年より復路の車内でもサンスペを聞くようになります。1:00に三原、5:00に神戸を通過するダイヤなのでRCC(中国放送)、CBC(中部日本放送)とリレーします。
(3)1979年8月18日(あさかぜ51号)
1ダイヤ :18:43(東京) – 1:00(米原) – 5:00(鴨方) - 広島(6:53)
2使用機器:FX-402(SONY)
3行程
前年に東京発全てのブルートレインが新系列(14系、24系)化され、寝台に面した窓が山側になってしまいました。ラジオの受信状態を良好に保つためには、列車のすれ違いがない海側に窓がある方が良いので、臨時列車ですが20系を選びました(帰路のあさかぜ4号の付属編成先頭にあたる7号車が、海側に窓があることに気づきます)。最後尾は偶然にも2年前に乗ったナハネフ22 501。
臨時列車ですので食堂車などありません。検札が終わり、買い込んだ駅弁を食べると早々に眠りにつきました。23:47名古屋に到着したところで目を覚まし、OBCの”サタデー・バチョン”を聞きながらサンスペを待ちます。
1:00にダイヤルをKBS京都に合わせ番組スタート。OBCから聞き始めた前年と違い、感度が良くクリアに聞くことができます。
2:15頃大阪を通過し3:00からはKBS京都に戻しますが、30分過ぎたあたりから受信状態が悪くなりだしたのでRNCとKBCを交互に受信します。
ラジカセの機種を変えましたが、ラジオの感度がいま一つで音質は一歩後退ですが、沿線の受信局が増えたおかげでまあまあの状態で聞くことができました。
帰路は「はやぶさ」で。1:00に岡山、5:00大垣付近を通過したところで床につきます。静岡を通過したあたりで目が覚めたので、食堂車にて富士山を見ながら朝定食をいただきます。洋定食のハムエッグは玉子2つとハム2枚が1/4ずつに分かれているのが印象的でした。
(4)1980年7月26日(あさかぜ1号)
1ダイヤ: 18:25(東京) – 1:00(彦根付近) – 5:00(尾道付近) – 6:55(広島)
2使用機器:FX-402(SONY)
3行程
前年乗ったはやぶさの2段寝台の快適さと食堂車の料理が忘れられず、あさかぜ1号を選択。この当時ブルートレイン人気は最高潮で、繁忙期のあさかぜはプレミアチケット化しており、海側の席を確保できなかったのですが、何とか個室のような17番下段の席を確保しました。
列車が出発し検札を済ませたら早速食堂車へ直行。横浜を出発してからすぐだったので、まだお客さんはまばらです。メニューはいろいろ迷ったあげく”アニョー風ステーキ”を注文。羊肉のステーキですが、”アニョー(子羊)”と謳っているだけあって柔らかく臭みもありませんでした。値段もリーズナブルなので、このときいらいから私の定番メニューになります。
腹を満たしたので軽く眠ることに。・・・列車の振動で目を覚ましたら、時間はなんと1:20!((( ;゜ Д ゜)))。寝過ごしてしまい、オープニングを聞き逃してしまいました。気を取り直して録音開始。
3:00に神戸付近を通過し、それ以降はKBS京都→RNC→KBCとリレーしていきますが、FX-402の受信状態はあまり良くなく、ひどいノイズに悩まされながら松永を過ぎたあたりで5:00を迎えます。ちょっと後味の悪い旅となってしまいました。
帰りは広島から「金星」です。
1ダイヤ: 18:45(東京) – 1:00(野洲付近) – 5:00(松永付近) – 8:56(防府)
2使用機器:ICF-D11(ラジオ)・HS-F1D(レコーダー)
3行程
この年にラジオとレコーダーを換えました。ラジオはデジタル表示なので、より正確な周波数で受信でき、音質向上が期待されます。
今回は難なく海側に窓のある7号車を確保。閑散期ということもあって乗客は私を含め3名しかいませんでした。食堂車も隣の車両なので移動が楽です。
野洲付近を通過したところで1:00スタート。逢坂山・山科トンネルで受信状態が悪くなった以外は全て良好で、ラジオを替えた効果を実感します。3:00に加古川付近を通過したところでネット局が少なくなり、KBS京都の遠距離受信モードに入りますが、以前に比べ感度がかなりアップしています。相生を過ぎ山間部に入っていくと民家の灯りも少なくなり、かわりに無数の星空が車窓いっぱいに広がります。寝台1ボックス席に1人だけなので、大きな窓を独占できる贅沢を満喫します。
4:00岡山付近、5:00松永を通過したところでやっと眠ります。
岩国を過ぎたあたりで目が覚め、そのまま食堂車にて朝食。防府で下車して小郡(現新山口)を目指します。
(6)1983年9月10日(富士)
1ダイヤ: 22:01(広島) – 1:00(和気付近) - 5:00(大垣付近) – 9:58(東京)
2使用機器:前回に同じ
3行程
広島より乗車し、放送開始まで機器をセットアップしながら待ちます。
0:23に岡山を出発。東岡山を過ぎたあたりから山間部に入るので受信状況は良くありません。1:00に比較的良好な電波をキャッチしましたが、CMの内容からJRT(四国放送)であることが判明。2:00に相生付近を通過する頃には、受信状況が良くなってきます。吹田付近で3:00を迎えますが、KBS京都とCBCのサービスエリア内なので5:00まで良好な状態で聞くことができます。大垣付近で番組終了。そのまま寝ます。
静岡付近で目が覚めたので食堂車へ。富士山と駿河湾を眺めながらいただく朝食は格別です。食後は席に戻って車内販売のコーヒーを飲みながら東京到着を待ちます。
(7)1984年8月18日(あさかぜ1号)
1ダイヤ: 18:45(東京) – 1:00(野洲付近) – 5:00(松永付近) – 8:56(防府)
2使用機器:ICF-D11(ラジオ)・HS-F1D(レコーダー)
3行程
臨時収入があったので、奮発してA寝台個室にしました。周りに気を使うこともありませんし、何といっても部屋に100Vコンセントが付いているので電池の減りをまったく気にせずに聞くことができます。難点は食堂車まで遠いこと。A個室は1号車に連結されているので6両分(約125m)通りぬけないとたどり着けません。
前回と同じく受信状態も良好。電源も安定しているのでいつもより気軽に聴くことができます。
帰りは下関発の「あさかぜ2号」です。食堂車の無いモノクラス編成なので、夕食を早めにすませて乗車。
行程は現在のサンライズ出雲・瀬戸とほぼ同じで、1:00(京都)、3:00(岡崎)、5:00(静岡)、そして東京には7:25に到着します。
1ダイヤ: 22:06(京都) – 1:00(福知山) - 5:00(末恒) – 9:48(出雲市)
2使用機器:前回に同じ
3行程
3月のダイヤ改正で「山陰」と80系「まつかぜ」が廃止されるということで、山陰行きを急遽決めました。京都まで新幹線で行き、京都駅西端にある山陰線ホームで列車を待ちます。
やがて12系客車と10系寝台車で編成された「山陰」が入線。廃止も間近いとあって車内は上段まで埋まっていましたが、なぜか寝台車はオハネフ12 の一両のみでした。
甲高い警笛とともに22:06定刻発車。特急とは異なるゆっくりとした走行音が眠気を誘いますがここはガマン。1:00に福知山を通過します。KBS京都を離れるにつれ受信状態が悪くなるので、西進するにつれKBCやBSN(新潟放送)など良好な電波を探しダイヤルを回します。2:00(八鹿)3:00(佐津)4:00(東浜)と通過し鳥取から2つ先の末恒で5:00を迎えここで一眠りします。
米子で停車中に目が覚め洗面所へ。別のボックスで盛り上がったグループの残骸がごみ箱からあふれ雑然としています。後続特急の通過待ちなどを繰り返し9:48に出雲市に到着しました。
オハネフ12 2018をカメラに収めた後は、10:19発の大社線で大社へ向かいます。大社駅はローカル線にしては立派な造りですが、この頃すでに列車本数は少なくなっており駅前は鄙びていました。
出雲大社へ行ったあと、14:00まで一畑電車で時間をつぶします。平田市駅には古そうな小型車に混じって、首都圏でよく見かけた西武の旧型車もあります。
出雲市へ戻り14:35発の「まつかぜ4号」で新大阪へ向かいます。80系DCは初めてで、生涯これが最初で最後の乗車となりました。城崎に近づくあたりで復路のメーンイベントである食堂車へ。18:00ちょっと前ですが、山陰本線最後の食堂車ということもあって、テーブルはほとんど埋まっており仕方なく相席に。当時の食堂車では各路線に名物料理があり(「さくら」にはちゃんぽんと皿うどんがありました)、迷うことなく出雲そばを注文しました。食堂車を堪能したあと席に戻りすっかり暗くなった車窓を眺めていると福知山を過ぎたあたりで女性従業員から食堂車営業終了のアナウンスが。最後のほうで、ダイヤ改正で営業休止になる旨とお礼を伝えるあたりでは涙で声を詰まらせており、なんだか切なくなりました。
新大阪到着後、80系の雄姿を記録し、急行「銀河」で東京に戻ります。この列車もダイヤ改正で14系になったので、これが最後の20系利用となりました。
(9)1985年8月17日(あさかぜ1号)
1ダイヤ: 18:45(東京) – 1:00(野洲付近) – 5:00(松永付近) – 6:55(広島)
2使用機器:ICF-D11(ラジオ)・CS-R1D(レコーダー)
3行程
カセットを反転する際に生じる無音部分を解消できるクイックリバース機構を搭載したラジカセに代えました。これで寝過し対策は万全です。
このルートは4回目でノウハウもかなり蓄積されました。天候も恵まれ受信状態は良好、各ネット局のリレーもKBS→OBC→KBS→RNC→RNBと把握しているのでスムースに受信できます。今までの中で最高の状態で録音を残すことができました。
(10)1985年8月31日(はやぶさ)
1ダイヤ:22:27(広島) – 10:30(東京)(台風接近のため遅延)
2使用機器:ICF-D11(ラジオ)・CS-R1D(レコーダー)
3行程
台風接近により列車の到着が大幅に遅れ、広島を出発したのは0:50頃でした。乗車後早急に準備し1:00の放送開始に間に合った時は海田市を通過したあたりでした。前の列車が遅れているのか、ところどころで停車しながら進みます。
ネット局もRCC→JRT→KBS京都とリレーし、吹田を過ぎたあたりで5:00を迎えます。結局3時間遅れで東京に到着。台風のおかげで運行は散々でしたが、3:00以降をKBS京都により比較的良好な状態で聞けたのは収穫でした。
(11)1985年10月5日(あさかぜ1号)
1ダイヤ: 18:45(東京) – 1:00(野洲付近) – 5:00(松永付近) – 6:55(広島)
2使用機器:ICF-D11(ラジオ)・CS-R1D(レコーダー)
3行程
9月29日の放送で次回は最終回ということを聞き、慌てて行き先を決めることになりました。東北本線など今まで乗ったことの無い路線も候補に挙げましたが、保存版ということで良好な受信をすべくいつもの「あさかぜ1号」を選びました。
18:45に東京駅を出発。食堂車にて夕食後少し眠り、名古屋に出発したところで目を覚まします。沿線各放送局の周波数を抜かり無くチェックし1:00を待ちます。
1:00の時報とともにスタート。石川みゆきアナのオープニングのナレーションに続き、師匠のオールナイトニッポン・オリジナルのフレーズが始まりました。車窓には田畑が続き、列車を追いかける月明かりが映えています。
逢坂山トンネルを過ぎ、京都、大阪へと列車は街灯りの中を流れるように進みます。”その時君は”、”驚き桃の木ビックリ話”など懐かしいコーナーが、「金星」や「あさかぜ51号」で聞いたときのことを思い出させてくれます。
神戸を過ぎしばらくして、月明かりに照らされた須磨の海岸線にさしかかります。
加古川付近を通過する頃はいつも”イントロ当てクイズ”のスタートですが、この日は歴代ディレクターのトークでした。
西に行くにつれ徐々に民家が少なくなり、有年を過ぎてからはすっかり山の中です。大阪などでは見られなかった満点の星空が車窓に広がり、エコーの利いたCMのフィラー・ミュージックと相まって宇宙の中にいるような(行ったこと無いけど)無限の広がりを感じさせてくれます。ヘッドホンからは師匠の”初天神”が流れています。
倉敷を過ぎ”うぐいすだにミュージックホール”が流れ、番組終了まで30分を切りました。こんな贅沢な時間がもう2度と体験できないと思うと本当に残念でなりません。残された時間を惜しむように、やや白み始めた夜空を眺めこの光景と音を心に刻みます。エンディング曲の、文字通り”星の降る夜”の中を列車は駆け抜けていきます。
師匠のお別れの挨拶が流れ、松永を過ぎたあたりで番組が終わり11年9ヶ月の歴史に終止符が打たれました。しばらくして車窓には尾道の海が・・・。
Ⅳ.あとがき
深夜放送の魅力とは何でしょうか?
聞く人よって様々だと思いますが、私にとっては、何もかも忘れさせて元気を与えてくれることです。
サンスペが放送されていた期間は、私にとって10代の多感な頃で度々凹むことも少なくありませんでした。そんな中、毎週末の夜4時間にわたって続く爆笑番組 – 鶴光師匠の変幻自在のトーク、番組を盛り上げるアシスタント、リスナーの投稿 – 。そして、吸い込まれるような静かな夜を感じることで、いやなことを全て忘れリセットできる。それが私にとっての深夜放送の魅力です。
その中で、年に一度のブルートレインで聞くサンスペは、日常とはかけ離れた、まさに別世界へのトリップでした。
サンスペ終了後すぐに社会人になり、日々の生活に追われ学生時代とは比べ物にならない挫折を何度も味わうことになりますが、この時残したテープを聞き全てをリセットすることで、何度も救われました。大げさかもしれませんが、深夜放送の思い出が明日を生きる糧になってくれたのです。
最後になりますが、深夜放送の思い出から皆様の昔の記憶を呼び起こせたら幸いです。
長々とした駄文をご拝読いただきありがとうございました。
さんきち